Let's Go Away For A While / The Beach Boys : ちょっと出ようよ
多忙のため、そしてちょっと思うところもあり、とりあえずブログを休止します。
去年の秋ごろも一度休止しましたが、その時は確か一ヶ月ちょっとくらいで戻ってきたと思います。今回は(というか今回も)無期限のお休み。あまりに休みが長くなるようであればブログを閉じてしまうかもしれないけど、今のところ分かりません。
だから、とりあえず。
ブログから距離を置くためにも、現在つきあいのあるブログも全て購読解除することにして、コメント欄も閉じます。ほら、万が一、愛情あふれるコメントなんてもらったら決心が鈍るじゃないですか。なんて無用な心配か(^^)
というわけで、私のブログを購読してくださっている方も、手間でなければ購読解除してもらった方がいいかもしれません。ブログが閉じてしまったら、購読解除もできずにずっと購読リストに残ってしまうのです。(はてな運営にお願いすれば消してもらえるけど)
さて、記事タイトルはビーチボーイズのインストゥルメンタル曲。アルバム『ペットサウンズ』に収録されています。タイトルから妄想するに、パーティーの喧噪を抜けて外に出ようぜ、っていう感じかなと思っています。夏の夜のひんやりとした感じがする、地味ながら美しい、私のとても好きな曲です。
ピチカートファイヴの同英語タイトルの異曲があり、彼らはそれに『ちょっと出ようよ』という日本語タイトルをつけています。その曲自体は大した事ないけど、良い訳、良いタイトルだと思います。
と、いうわけで私もちょっと出ます。
それではみなさん、とりあえず、ありがとう。そしてさようなら。
写真で振り返る一週間
この間の嵐で倒れたクルミの大木は、チェーンソーで解体されているようで、この数日ういーん、ういーん、とうるさくてかないません。
こんもりとした枝葉に隠れて、どんな人が作業しているのか全く見えませんが、『悪魔のいけにえ』みたいな人でないことを祈ります。
嵐を生き延びた林檎の実。よく頑張った。秋には美味しく食べてあげるからな。
いかにも台風一過な晴天。
愛犬モナは夏に向けてサマーカット。
これは使用前。生ける毛玉。歌って踊れる毛玉。
そして使用後。ちゃんと目があって良かったよ。
バーベキュー。肉も焼いたけど、パプリカの方が見た目に面白いので。
先週は出張も。小さ目の飛行機を乗り継いで。
フィヨルド。だと思う。
家の前の夕焼け。一週間は飛ぶように過ぎていく。
やるべき事が山積みでちょっとうんざりするけど、まあ、やれることをやるしかない。
というわけで、とりあえずビールだな。うん。
ブルー / 渡辺真知子 : 昭和と歌謡曲と
主に(古い)洋楽ばかり聴いている私だが、たまには日本の曲を聴く事もある。
最近の曲なんて知るわけもなく、聴くのはもっぱら「昭和」の頃の曲だ。
大別するとニューミュージックか歌謡曲という事になるのだろうが、こうして書いてみると、その響きの古臭いこと。
『ニューミュージック』大体ニューやら新やらつけられたものは、即刻古くなってしまう定めなのだ。それでも人は懲りずにニューやら何やらをつけたがる。ホテル ニュー越谷を見よ。
『歌謡曲』 J-POPに駆逐されてしまった感がある。そもそもJ-POPとは何か、私にはよく分からないが。
『昭和の歌謡曲』ともなれば古臭さもひとしおだが、そもそも昭和と歌謡曲は分かちがたく結びついているのではなかろうか。『昭和のJ-POP』や『平成の歌謡曲』はきっと存在しない。歌謡曲は昭和とともに消えてしまったのだ。そして引導を渡したのは小渕氏に違いない。
小学生の頃は『ザ・ベストテン』を欠かさず見ていた。だからYoutubeで、あの頃の曲を探したりする。70年代末頃の楽曲を聴いて、ちょっとびっくりした。当時ニューミュージックというくくりで捉えていた渡辺真知子や八神純子が、実は歌謡曲の人だったからだ。ところどころに入るこぶし、泣きのフレーズ、ダン池田とクレジットされそうなバックの演奏。これは歌謡曲だ、と思った。八神純子はあともう二歩くらいで演歌だとも。
もっとも音楽のカテゴライズなんてあいまいなので、人によっては彼女達は十分ニューミュージックなのかもしれない。しかし私の中ではニューミュージックとは例えば松任谷由美だ。彼女の楽曲は歌謡曲とは明らかに違う。それと比べると渡辺真知子、八神純子は歌謡曲なのだ。
まあ、そういう区分け自体は実はどうでもいい(なら書くな、ってのは無しね)。
何であろうと私は楽しく聴いている。特に良いなと思ったのが渡辺真知子の『ブルー』だ。当時は『迷い道』と『かもめが翔んだ日』と比べて印象が弱かったのだが、今聴くととても良い。
この歌はこう始まる。
あなたは優しい目 だけど とてもブルー
凍りついてしまうほど
抱きしめて だけど とてもブルー
あの娘の代わりと分かっているから
平易な歌詞なので、当時小学生の私でもストーリーは理解できていたと思う。しかし、恋愛の苦しさが分かるのはそれからずっと後の事なのであった。(続かない)
嵐の夜/さらばクルミの木
急に暑くなると嵐が来る。
この数日は気温30度前後の好天が続いていたので、そろそろ来るかと思っていたら、それは昨晩やってきた。
昨日は友人一家を招いてバーベキューを楽しんだのだが、彼らを玄関まで送ると西の空には凶暴に黒くて巨大な雲があった。それは速足でこちらにやってきて、私の住む小さな町をたちまちのうちに暴風雨で包んだ。
今回の嵐は風が凄まじく、家の周りの木々は狂ったように揺れた。重いものが飛んできて窓ガラスが破れたりしないかと心配になり、あわててシャッターを下ろす。
小一時間ほどでびゅうびゅうという風の音はやんだ。
シャッターを上げ庭に出てみると、西の空がかすかに明るい。そして庭の眺めはいつもと違っている。なぜかというとお隣さんのクルミの大木が消え失せているからだ。
もちろん本当に消え失せたわけではなくて、その大木は強風で根こそぎ横倒しになり視界から消えていたのであった。幸いにして、別のお隣さんの庭に倒れこみ、特に家屋や人の被害は無いようだ。倒れる方向が悪ければ、こちらの家の屋根や壁が壊されていたに違いない。なにせ15メートルはあろう大木なのだ。
この大木は夏には私たちの庭に木陰を、秋には沢山のクルミをもたらした。
クルミ仮面も、この木から生まれたものだ。
しかし同時に、この大木のために私たちの林檎の木は夏でも陽光を存分に浴びることができず、秋には山ほど落ちてくる枯葉に我々は煩わされた。だから、惜しむ気持ち半分、喜ぶ気持ち半分と言ったところ。新しい眺めにもすぐ慣れるだろう。
さらばクルミの木よ。
これは今朝撮った、倒れたクルミの木。
大きくてとてもカメラに入りきらない。
ところで嵐が去った後、朝の3時か4時ごろにも時々強い雨が降り、雷が鳴った。うちの愛犬モナはそれにおびえたのか階下で吠えた。
しょうがなく私は二階の寝室から、モナが居る一階の居間に降りて、そこのソファで横になることにした。
するとモナはすかさず私の横にぴったりと添い寝してきた。普段そんな事はしないので、よっぽど心細かったのだろう。愛い奴め。
モナの寝息を耳元で聞き、湿った鼻息を首筋に感じる。それ自体は悪い気はしなかったが、結局寝つけなかった。それで寝るのをあきらめてブログを書くことにした。
モナはまだソファの上でぐうぐう寝ている。
Kodachrome / Paul Simon : 天然色で行こう!
夏が来ると、ポール・サイモンの『僕のコダクローム』が聴きたくなる。歌詞にあるThe Greens of Summersという(私が聴きとれる数少ない)フレーズのせいかもしれないけど、何より曲の感じがなんとも夏の気分だから。
コダクロームというのはコダック社の長い歴史を持つカラーフィルムなんだそうだ。でも2009年には販売終了してしまった。今やデジタルだもんね。ただ、ポール・サイモンの曲名として、まだまだ命を保ち続けるのではないかと思う。
Paul Simon - Kodachrome + lyrics - YouTube
歌詞の中のコダクロームが象徴しているのは、自由であり、躍動であり、空想であり、「今」なんだろう。対置されているのは、退屈だった学校の授業、昔のガールフレンド達。つまらない灰色の現実、色褪せてしまった過去といったところか。
ところで、訳していて一つ気になったのは、「(教育を受けていないことで)痛い目にあったことは無い」の原文”Hasn't hurt me none”。どう見てもnoneが不要。この余計なnoneのために二重否定文になっていて、そのまま訳すとちぐはぐになってしまう。
もしかしたらストーンズの "I can't get no satisfaction"みたいに、ネガティブさを強調するための表現かなと思いネットで調べてみると、「あえて誤った文法にする事で主人公の学の無さを表している」という趣旨の説明が、とある英文サイトにあって腑に落ちた。なるほどね。いや、むしろ、ろくな教育を受けていないと言っている主人公の自虐ギャグに違いない。そう考えるともっと面白い。
ちなみに冒頭の写真は昔iPhoneで撮ったもの。
コダクロームでなくてごめんあそばせ。おほほ。
Kodachrome :歌詞、和訳、超訳
続きを読む映画『トランセンデンス』を観てきた(ネタバレあり)
義母が遊びに来ているので、昨晩は子供達を預けて妻と久々の夜遊び。
と言っても、映画のレイトショーを観る程度のもんなんだけどね。はは。
最近は映画情報にも疎くて、どの映画が面白そうかなんてさっぱり分からない。
だから、ジョニー・デップが出ているという事で『トランセンデンス』に決めたのだが、我々は映画館で驚愕する事になった。
なんなんだ、
この、
びっくりするほどの、
凡作は。
ハリウッドはコンピューター・ウイルスでなんでも片が付くと思っているに違いない。風呂敷を広げた後は「とりあえずウイルスで締めとけ」みたいな。
『インディペンデンス・デイ』のラストにもずっこけたが、こうなるとコンピューター・ウイルスってのは黄門様の印籠だ。金さんの桜吹雪だ。これにて一件落着だ。
登場人物の誰にも感情移入できぬまま、スリルもサスペンスも喜びも悲しみもないままに物語は淡々と進む。いや、そこかしこでバンバン爆発はするんだが、うわすべりのさるすべり。
こいつらなら、なんとかしてくれるのではないかと一縷の望みを抱いていたモーガン・フリーマンやキリアン・マーフィーもこれといった見せ場も無く映画は終わる。
なんてこった。
人格を持った超頭脳が誕生したらどうなるか、という発想自体は面白いんだけどね。
記憶とは何か、思考とは何か、感情とは何か。
精神とは、自我とは、「私」とは何か。
電気信号と化学反応の集積なのか。それ以上のものなのか。
映画の冒頭では、そのような点にも焦点を当てたSFスリラーなのかと期待しながら観ていたので、肩すかし感も大きかったのかもしれない。
唯一 面白いなと思ったのは、映画に出てくる反テクノロジーを唱えるテロ組織RIFTで、おそらくシー・シェパードのような過激な環境保護団体にヒントを得たのだろうが、科学と倫理の問題がますます難しくなる中で、このような組織は間違いなく出てくるに違いない。私が知らないだけで、もう存在しているのかもしれないが。