青い西瓜の日々

軸なきブログ

豚とソクラテスと私

 「太った豚より、痩せたソクラテスになれ。」

有名なフレーズですね。1964年、当時の東京大学総長であった大河内一男氏が卒業式辞に記した一文との事。
まず絵面がぱっと浮かぶし、言わんとすることもまあ分かる。よく出来たキャッチフレーズだと思う。でも、なんかもやっとしたものが残る。なんでだろう。
つらつら考えるに、この文には

という二つの対立軸があって、それがためにフォーカスがぼけているんじゃないかな。
 
私の理解はこんな感じ。
太った⇔痩せた、は世俗的成功と清貧の対比。
豚⇔ソクラテス、は俗人と哲人の対比。
 
だから「金や名声を追い求める俗人にならずに、清貧の中に見を置き高邁な精神をもって生きよ。」というメッセージなんだな、と私は理解したわけです。
でも、語られていない組み合わせはどうなの?とも考えるわけです。すなわち、「太ったソクラテス」と「痩せた豚」ですね。「痩せた豚」はまあいい。誰もそんなもんになりたいと思わないので警句を発する必要もない。
 
でも「太ったソクラテス」はどこに位置するんだろう?
「痩せたソクラテス」よりも格上なんだろうか格下なんだろうか?
ここに来て、「あれ? 痩せてる事が大事なんだっけ?それともソクラテスであること?」と首を傾げてしまうわけです。

そこで調べてみると、その豚とソクラテスには原典があることが判りました。 J.S.ミルの言葉だそうです。

    「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
    — 『功利主義』第二章

ふむふむ。
これだと満足云々に関わらず、豚<愚者<ソクラテス、というリニアな位置づけができているので混乱はありません。 要はソクラテスが痩せていようが太っていようが関係ない。ソクラテスであることが大事という話。
でも、実はこの文は私が思ってた以上に複雑な背景を持っていて、"最大多数の最大幸福"ベンサムの幸福量計算法を否定する文脈で出てきた文のようです。幸福量といったって愚者と哲人のそれは質的な違いがあるから単純に計算なんて出来ないよ、みたいな。

まとめると、ミルの言葉には

  • 意識の高い人でいよう
  • 意識の高い人と低い人の幸せは同じ尺度では測れない

というメッセージがあって、大河内氏はその前者にハイライトを当てて式辞に使ったという事ではないでしょうか。

村上春樹がエッセイで「小人は小事に興ずる」(つまらない人間はつまらない事で喜ぶ)という諺に触れていましたが、きっとミルの言う「満足な愚者」とはそういう事なんでしょう。しかし結局のところ「(小事であれ大事であれ)幸せならばいいの...」と思ってしまう私は愚者なんでしょうが、ドンマイ!